白洲正子著 『十一面観音巡礼』

 本書は、決して、宗教、仏像、古代史の専門家ではない白洲による、十一面観音の巡礼記である。私自身も、平成18年に東京国立博物館で開催された「特別展 仏像 ―一木にこめられた祈り―」で、琵琶湖湖北の渡岸寺観音堂(向源寺)の十一面観音像と出会って以来、十一面観音が気になる存在であった。落とし気味の照明の中、スポットライトに照らされた女性的な艶っぽい観音様のお姿は、今も脳裏に焼き付いて離れない。白洲にとっても、十一面観音は「昔からもっとも魅力のある存在」であり、その魅力に取り憑かれ、全国の十一面観音の巡礼の旅をしたとのことであった。

 白洲によれば、十一面観音は、もともとは、インドのバラモン教の十一荒神という恐ろしい山の神であったが、長年の供養と信仰により、荒神から善神へ転じた。それが、白鳳時代に日本に渡り、我が国の八百万の神の内の山の神様と結びついた。十一面観音は、我が国で、山の神様の子孫となった。山岳信仰が広く深く広がっている我が国では、山に近く、山岳信仰と関係の深い寺に、非常にたくさんの十一面観音が祀ってあるわけである。

 この巡礼記は、昭和7,8年頃から昭和50年までに行われており、16カ所が取り上げられている。琵琶湖北の渡岸寺観音堂(向源寺)をはじめ、奈良の聖林寺室生寺、京都の月輪寺、岐阜谷汲の橫蔵寺等が取り上げられている。お目当ての十一面観音の説明のみならず、祀られている寺の由来、地域の歴史的背景、地元の人々の信仰等について、丁寧に自らの足で取材している。なによりも、十一面観音に対する、白洲の愛情のような気持ちが、読者にひしひしと伝わってくる。

 私の贔屓の湖北の渡岸寺観音堂(向源寺)の十一面観音については、白洲は頭上の十一面の細心の工夫に注目し、十一面のうち「悪」の面が七つ、「善」の面が三つで、悪に重きを置いていることが特徴的だという。この点を、白洲は、この観音が未だ人間の悩みから脱却できておらず、そこが親しみ深いという。また、そういった点に、信仰の深さを感じという。私は、この章の白洲の記載については、正直、期待外れであった。梅原猛が言うような「一木造り」の信仰的な意味、白山信仰の開祖である泰澄との関係、私が感じたような、ある種「官能的」な美しい外観については触れられていない。この十一面観音の歴史的、宗教的、美術的な素晴らしさについて、今少し、切り込んで記載して欲しかった。しかし、自分の目に映る仏像の姿は、見る人の心の写しそのままだとも言う。「艶っぽく」「官能的」に見えた私の心は・・・。

 私は、本書によって、忘れかけていた十一面観音への興味が、自分の中にふつふつと沸き起こることを感じた。特に、私の生活の基盤である東海地方に、岐阜谷汲の橫蔵寺や美濃加茂清水寺等のように、我が国を代表する十一面観音が、今も地元の人たちの信仰の対象になっていることに興奮を禁じ得ない。本書との出会いは、私なりの十一面観音巡礼の旅のはじまりの契機となりそうである。